智観寺。丹党中山家菩提寺、高麗三十三ヶ所霊場
智観寺の概要
真言宗豊山派寺院の智観寺は、常寂山蓮華院と号します。秩父・加治両郷を領していた中山丹冶武信が元慶年中(877-885)に創建したと伝えられます。永正年中(1504-1521)に朝覚上人によって中興、江戸時代には慶安元年に寺領15石の御朱印を拝領しています。慶應4年の飯能戦争の際には振武軍の陣となり、砲弾を受けた門扉が宝物殿に所蔵されています。智観寺大日堂(現宝物殿)は高麗三十三ヶ所霊場28番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所64番、武州八十八所霊場84番です。
山号 | 常寂山 |
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院号 | 蓮華院 |
寺号 | 智観寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 飯能市中山520 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 高麗三十三ヶ所霊場1番、宝物殿は毎年10月最終日曜公開 |
智観寺の縁起
智観寺は、秩父・加治両郷を領していた中山丹冶武信が元慶年中(877-885)に創建したと伝えられます。永正年中(1504-1521)に朝覚上人によって中興、江戸時代には慶安元年に寺領15石の御朱印を拝領、寛永7年、密場の檀林となっています。慶應4年の飯能戦争の際には振武軍の陣となり、能仁寺や、智観寺、広渡寺とともに兵火に遭い、砲弾を受けた門扉が宝物殿に所蔵されています。本堂は明治9年唐竹村宝性寺の本堂を購入して再建、山門も昭和期に入り再建を果たしています。
新編武蔵風土記稿による智観寺の縁起
智観寺
常寂山蓮華院と号す。新義真言宗、江戸大塚護持院(現護国寺)の末なり。慶安元年8月17日後朱印を賜ふ。その文に中山郷智観寺領寺内15石、丹生明神社(加治神社に合祀)領同所5石、合20石之事とあり。抑当寺は陽成帝元慶年間中山氏の遠祖、宮内卿家義の孫、丹冶武信の初建する所なり。夫より星霜六百余年を歴て、永正の此朝覚なるもの中興開山す。今の山号・院号は正保3年4月大覚寺宮より賜ふの旨、大納言法印守助が執達の状あり。朝覚より15世俊興の時、元禄10年護持院の法流となる。寛永7年16世檀海之時、密場の檀林となる。傳燈今に至て27世なり。本尊不動を安ず。木の立像にて長5尺1寸、運慶の作と云。加賀儒生辻了的棟札の文左の如。
武州高麗郡中山智観寺者、丹冶武信之所創造、而密宗之阿闍若也、陽成院元慶年中、武信移関東、自領秩父加治郷、此時有故、而自高野山、勤請丹生明神於此地、故並建此寺、爾来星霜巳久、堂閣共破、朝霧焼不断之香、夜月挑常住之燈、寛永年中宥慶法印住持之時、武信之苗裔従五位下丹冶信正追遠之余、重加冶修復、以頸遠祖之英烈、土木功成、三宝全備、願子孫相続、経之営之垂之于不朽也、因使余記之、於是乎書。寛永19年壬午歳2月日 辻子閑邪軒了的記之。
惣門。表門、常寂山の額を掲ぐ、筆者詳ならず。
中門。本堂。書院。庫裡。裏門。
鐘楼、古鐘破裂して、明和2年鋳造の銘をかく。銘文事実に渉ることなければここに略す。(中略)
寺宝。
独鈷一。伊駒寶山比丘が、所持のものといふ。
松翠杖一。径9寸5分。
碼瑙盤一枚。縦1尺5寸6分。横1尺3寸。厚6分。
小蘆石一。其性黒色密緻にて山の形象をなせり。
心越禅師墨蹟一幅。
刀一腰。身長3尺5寸、銘常陸国住大原義次作、奉納丹生明神寶前、中山風軒。
詩歌一枚。中山備前守信敏後室貞了院臨終の作なり。宝永8年3月卒す。小川坊城参議左大弁息女なりと云。(中略)
神明社。稲荷社。白山社。山王社。
阿弥陀堂。
弥陀の長1尺5寸木の立像。慈覚大師の作と云。別に薬師を安ず。是も同作にて長1尺5寸、木の坐像なり。
御影堂。
本堂の西北山上にあり。方3間。此所に中山備前守信吉衣冠の壽像を安ず。傍に木碑あり。林羅さんの文を記。(中略)
風軒。
風軒の扁額を懸く。本堂より西の処にあり、方6尺。石柱瓦葺なり。中山二世丹冶信正が遺骨を収蔵せし所なり。此外に両中山氏の墳墓あまたにこれあり。
古碑
境内の西にあり。何人の碑たることを知らず。幅1尺8寸。長6尺余。各悉曇の下に文あり。(新編武蔵風土記稿より)
飯能市史資料編による智観寺の縁起
陽成天皇の元慶年中(877-885)に秩父・加治両郷を領していた中山丹冶武信が創建したものという。
以来星霜を重ね、堂閣が衰頽したが、永正年中(1504-1521)に朝覚上人によって中興された。また、天正年中(1573-1592)に火災のため焼失し、飯能戦争のときも兵火で焼失したが、明治9年に本堂が再建された。(飯能市史資料編より)
智観寺所蔵の文化財
- 中山信吉木碑(埼玉県指定文化財)
- 中山信吉墓(埼玉県指定文化財)
- 板碑3基(埼玉県指定文化財)
- 木像薬師如来坐像(飯能市指定文化財)
中山信吉と智観寺
智観寺は中山氏の租、丹治武信が元慶年間(877-885)創建した寺である(新編武蔵風土記稿)。武信は同時に智観寺の北隣に丹生神社(加治神社に合祀)を勧請した。中山氏は智観寺を菩提寺とし、丹生神社を氏神とした。中山氏の館跡は智観寺の北東にあり、堀跡は方形をしている。
中山信吉は中山家範の次男である。家範の父中山家勝の代に加治氏から中山氏に改称したとも言われている。家範は豊臣秀吉の小田原攻めにおいて北条軍の八王子城を守り、奮戦し戦死を遂げ、その武名を残した。信吉は徳川家康に取り立てられ、側近として活躍する。また水戸家初代藩主徳川頼房の傅育を命じられ、水戸藩の付家老となる。中山氏は水戸藩の北の要地である多賀郡松岡周辺(現高萩市)、久慈郡太田村周辺(現常陸太田市)に二万五千石程の領地を持ち、代々水戸藩の付家老として活躍した。
智観寺には中山信吉ほか、二代、四代を除き幕末まで代々の当主がほぼ夫妻で葬られている。信吉の墓前には信吉の嗣子中山信正によって「御影堂」が建立され、内部には宮殿、信吉寿像、信吉木碑、燭台、
位牌が妥置されていた。木碑には、林羅山による信吉を顕彰する撰丈が刻まれており、亀趺座(亀の台座)の上に碑が立っている。「御影堂」は三間四面で明治時代に解体され、木碑等は現在収蔵庫に保管されている。
中山信吉は飯能市と高萩市とを結びつける人物である。中山氏は先祖伝来の地を大事にしてきた。信吉と智観寺、その関係者と関係青料は郷土の歴史そして日本の歴史を私たちに教えてくれる。(飯能市教育委員会掲示より)
木像薬師如来坐像
この仏像は像高63.4cm、檜材割矧造りで、かつて智観寺境内にあった薬師堂の旧仏と年えられる。藤原様を色濃く残しながら、鎌倉新様彫刻の写実的な造形表現を見せる作品である。
大きな肉髻、小粒な螺髪、穏やかな面相、ゆるやかな衣文線などは、前代の藤原様式をとどめている。反面きびしさを増した面貌、背筋をスッキリ伸ばした体躯、柔らかにたたみこまれた陰影の強い衣文線の造形等には、新しい時代様式がうかがえる。構造も、頭体部の大半を一材から本取りする方法は古風であるが、各部材の矧合わせや、内割りも丁寧に仕上げたあたりは時代の新しさを感じさせる。
像は現在、県指定丈北財である「中山信吉木碑」、「智観寺板石蕗婆」とともに収蔵庫に保管されている。
また、境内には県指定史跡である卓山信吉墓がある。(飯能市教育委員会掲示より)
智観寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」