今福菅原神社。川越市今福の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

今福菅原神社。上奥富梅宮天満宮を勧請

今福菅原神社の概要

今福菅原神社は、川越市今福にある菅原神社です。今福菅原神社は、上奥富の志村次郎兵衛が武蔵野開発の総請人、大塚新田の牛窪佐右衛門が責任者となり承応年間(1652-1655)より今福を開発、承応元年(1652)3月上奥富梅宮天満宮を勧請して創建、梅宮天満宮と称していたといいます。明治維新後の神仏分離に際し、村社に列格、名主山口房次郎は神葬祭を推進、当時の村民の大半を仏教から改宗させ、明治23年に房次郎は祖霊社を創祀しています。明治時代後期の神社整理に際し、平野神社を合祀しています。

今福菅原神社
今福菅原神社の概要
社号 菅原神社
祭神 菅原道真公、大己貴命
相殿 素戔嗚尊(平野神社
境内社 三峰、浅間、琴平、愛宕、稲荷、祖霊社
祭日 春祈祷4月15日、天王様(平野神社)7月14~16日、秋祭り10月15日
住所 川越市今福673
備考 -



今福菅原神社の由緒

今福菅原神社は、上奥富の志村次郎兵衛が武蔵野開発の総請人、大塚新田の牛窪佐右衛門が責任者となり承応年間(1652-1655)より今福を開発、承応元年(1652)3月上奥富梅宮天満宮を勧請して創建、梅宮天満宮と称していたといいます。明治維新後の神仏分離に際し、村社に列格、名主山口房次郎は神葬祭を推進、当時の村民の大半を仏教から改宗させ、明治23年に房次郎は祖霊社を創祀しています。明治時代後期の神社整理に際し、平野神社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による今福菅原神社の由緒

(今福村)
天満宮
村の鎮守なり、明見院の持(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による今福菅原神社の由緒

菅原神社<川越市今福六七三(今福字北野)>
寛永一六年、松平信綱は川越城に入ると領内武蔵野の開発に努め、以来開発は進み慶安五年輝綱の代には大塚新田の牛窪佐右衛門・上奥富の志村次郎兵衛が今福に鍬を入れた。次郎兵衛は武蔵野開発の総請人で割元でもあり、承応元年三月上奥富梅宮天満宮を勧請し梅宮天満宮と称し、菅原道真公と土地の神として大己貴命の二柱を祀った。その後、寛文七年三月七日天神に別当及び葬寮兼庵室が置かれ神事葬儀などの場となり、これが天台宗梅雲山明見院となった。
神仏分離により村人は別当の和久津孝学に、復飾して神職になることを勧めたが、依然僧職に留まったため三芳野天神神職の三芳野宣明を頼み神事は行われた。やがて村民の牛窪久次郎を神職としてもり立てることが村中の総意となり、久次郎が明治三年から神職となった。明治から大正にかけての祀職は資料に欠けるため不明であるが、昭和の初めからは吉田藤吉、松本英雄、榊原光作、同茂と継いでいる。
復飾問題で寺と村民間に確執が生じた時、平田国学の徒であった名主山口房次郎は自ら「神道自葬願」を提出すると共に、村民に改宗を勧め一二六戸の内一〇九戸を神葬としたため、当時の明見院は檀家が八戸となった。明治二三年、房次郎は祖霊社を祀り、現在当社末社となっている。また、天文年中、川越夜戦の折北条氏康が自軍のはやり病を平癒するために祀った平野神社が本殿に合祀されている。(「埼玉の神社」より)


「入間郡誌」による今福菅原神社の由緒

天満宮
今福の昔三十六軒時代に於て、鎮守を設くるの必要上勧請したるものにして、或は大塚新田天神社よりせりと云ひ、或は奥富梅ノ宮よりせりと云ふ。宿の中央に位し、南大塚及大塚新田に出づる道路に沿えり。今は牛頭天王をも合祀し、今福の鎮守たり。(中台を除く)社殿清素、境内高雅也。村社に列す。(「入間郡誌」より)

今福菅原神社の周辺図