出雲乃伊波比神社。熊谷市板井の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

出雲乃伊波比神社。延喜式内社論社

出雲乃伊波比神社の概要

出雲乃伊波比神社は、熊谷市板井にある神社です。出雲乃伊波比神社の創建年代等は不詳ながら、入間郡一帯に勢力を持った出雲系氏族が当地移住した際に祀ったのではないかと推測され、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載される「出雲乃伊波比神社」の論社となっています。本山派修験長命寺27世良恭法印が、文明年間(1469-1487)に鹿島明神社を勧請、社名を出雲伊波比神社を改めたといいます。明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格、明治28年社号を出雲乃伊波比神社を復しています。

出雲乃伊波比神社
出雲乃伊波比神社の概要
社号 出雲乃伊波比神社
祭神 武甕槌命
相殿 -
境内社 八坂社、氷川社、小御嶽・富士浅間、三峰社、天満・神明・山神・稲荷・富士浅間合殿
祭日 祈年祭2月下旬、春日待4月17日、八坂祭7月14日、秋日待10月17日、氷川祭12月15日
住所 熊谷市板井718
備考 -



出雲乃伊波比神社の由緒

出雲乃伊波比神社の創建年代等は不詳ながら、入間郡一帯に勢力を持った出雲系氏族が当地移住した際に祀ったのではないかと推測され、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載される「出雲乃伊波比神社」の論社となっています。本山派修験長命寺27世良恭法印が、文明年間(1469-1487)に鹿島明神社を勧請、社名を出雲伊波比神社を改めたといいます。明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格、明治28年社号を出雲乃伊波比神社を復しています。(『新編武蔵風土記稿』に氷川社と記載してありますが、明治維新後長命寺から復職した祠掌が氷川社は誤りで春日社だと申し立てています)

境内掲示による出雲乃伊波比神社の由緒

出雲乃伊波比神社
本社は、もと鹿島神社といわれていたが、明治二十八年に出雲乃伊波比神社と改称された。祭神は、武甕槌命である。
境内には、氷川神社、八坂神社、龍田神社、稲荷神社、天満神社、神明神社、山神社、富士浅間神社などが合祀されている。
本社の祭神武甕槌命は、神話時代の高天原で、国土平定役の白羽の矢が、まず経津主命に立てられたとき力に自信の溢れている武甕槌命もその役を希望して、二神が協力して国土平定の大役を果たしたという。
武勇絶倫しかも協力性に燃えた国づくりの華々しい勲功の神である。
また、社前の和田川に架けられた太皷橋は、昔から八雲橋といわれ、この橋をくぐって子供のはしか平癒を祈願するものが多く、昭和の初め頃まで「はしか参り」が列をなしたものである。
境内に祀られている神々の祭日のうち、特に七月十日の八坂祭りは、昔から「板井の天のう様」として近在に知られ、明治四年からh、太皷の「ヒバリバヤシ」を載せた屋台が「みこし」と一緒に板井区内をにぎやかに一巡するようになった。(埼玉県掲示より)

新編武蔵風土記稿による出雲乃伊波比神社の由緒

(板井村)
氷川社
村の鎮守なり、【延喜式】神名帳に載る出雲乃伊波比神社なりと云、社地老杉の繁茂せるさま神古たれど、たしかなる證據もなく、口碑の傳のみなり、長命寺の持、下二社同じ
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鹿島社
是も村の鎮守なり
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天満宮(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による出雲乃伊波比神社の由緒

出雲乃伊波比神社<江南町板井八二四(板井字鹿島)>
当社は、『延喜式』神名帳に登載されている男衾郡三座のうちの一座であると伝え、鎮座地は荒川水系に属する和田川上流にある。地内には、奈良・平安期の住居跡が確認されているとともに、隣村の大字塩では古墳群が存在している。
古代、当社を奉斎した集団は、社名から出雲系氏族であった可能性が考えられる。これは当社と同じ社名の入間郡の式内社「出雲伊波比神社」や出雲という名称こそ冠していないが、出雲系氏族の物部氏が奉斎したと思われる物部天神社と中氷川神社の存在からもうかがえる。恐らく、入間郡一帯に勢力があった出雲系氏族の一派が当地に移住し、当社を創建したのであろう。また、祀る神は、武蔵国内の荏原郡「磐井神社」・多磨郡「青渭神社」・横見郡「伊波比神社」などの式内社同様、水源に坐す神であったに違いない。
別当は、京都の聖護院末の本山派修験長命寺が明治維新まで務めた。開山は、元阿円長法印で、久安三年(一一四七)に寂している。
同寺の法印は、男衾・比企・幡羅・榛沢郡のうち四八か村の修験を統轄する正年行事職で、幕末までに合わせて四三世にわたる法印が相続した。中でも二七世良恭法印は、文明年間(一四六九-八七)、当社に鹿島明神を勧請して社名を出雲伊波比神社から鹿島社と改めた。以後、これは明治二十八年の旧社名復古まで変更されなかった。(「埼玉の神社」より)


出雲乃伊波比神社の周辺図