与野御嶽社。さいたま市中央区本町西の神社、与野七福神の弁財天

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与野御嶽社。名主の伊原平八が明治初年前後に創建、与野七福神の弁財天

与野御嶽社の概要

与野御嶽社は、さいたま市中央区本町西にある神社です。与野御嶽社は、御嶽講の四大講祖の一人である一心行者を支援していた名主の伊原平八が、明治初年前後に創建したといいます。与野七福神の弁財天です。

与野御嶽社
与野御嶽社の概要
社号 御嶽社
祭神 大山祇命、国常立尊
相殿 -
境内社 -
住所 さいたま市中央区本町西2-5-6
祭日 -
備考 与野七福神の弁財天



与野御嶽社の由緒

与野御嶽社は、御嶽講の四大講祖の一人である一心行者を支援していた名主の伊原平八が、明治初年前後に創建したといいます。

「埼玉の神社」による与野御嶽社の由緒

本町東に鎮座する一山神社の由緒や信仰に見られるように、与野は江戸時代から木曾御嶽講の盛んな地域であった。とりわけ、与野の名主であった井原平八はその熱心な信者であり、御嶽講の四大講祖の一人である一心行者を支援すると共に、自らも御嶽講の先達として布教に努めた。更に、井原平八の養子の治兵衛は、後に御嶽講の行法を感得して一山と名乗る行者となり、御嶽講の四大講祖の一人として数万の信者を集め、没後は一山霊神として一山神社に祀られている。
文政四年(一八二一)、幕府は御嶽講に禁圧を加え、一心は遠島に処せられた。やがて、尾張藩主の取り計らいによって、御嶽講は解禁され、井原平八も布教活動を再開するが、当社は、口碑によれば、この禁圧のために一旦は所払いとなった井原平八が、住民らの熱心な嘆願や御嶽講の解禁によって与野に戻ってから造った社であるという。
したがって、『風土記稿』 には、当社についての記載はなく、恐らくは、井原家が社地を寄進して新たに一社を設けたものか、既に地内にあった何らかの社の祭神を改めて御嶽社としたものであろう。
また、一説には当社は明治初年の創建といわれ、『明細帳』は、当社の由緒を「創立不詳。明治九年中再建。同十年五月天祖神社大国社の境内を併せて公園と定めらる」と記している。その後、建物の老朽化が進んだため、昭和二十年代に改築が施された。(「埼玉の神社」より)


与野御嶽社の周辺図


参考資料

  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)