鹿手袋八幡社。さいたま市南区鹿手袋の神社
鹿手袋八幡社の概要
鹿手袋八幡社は、さいたま市南区鹿手袋にある神社です。鹿手袋八幡社の創建年代等は不詳ながら、良宣(天文14年1545年寂)が開山した寶泉寺境内に祀られていたといい、本殿内の騎乗八幡大明神像台座底面には宝永七年(1710)の墨書があるといいます。
社号 | 八幡社 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | さいたま市南区鹿手袋6-6-20 |
祭日 | - |
備考 |
鹿手袋八幡社の由緒
鹿手袋八幡社の創建年代等は不詳ながら、良宣(天文14年1545年寂)が開山した寶泉寺境内に祀られていたといい、本殿内の騎乗八幡大明神像台座底面には宝永七年(1710)の墨書があるといいます。その後永堀家の鬼門除けとして当地へ移転したといいます。
新編武蔵風土記稿による鹿手袋八幡社の由緒
(鹿手袋村)八幡社
寳泉寺の持(新編武蔵風土記稿より)
埼玉の神社による鹿手袋八幡社の由緒
八幡社<浦和市鹿手袋六-六-二〇(鹿手袋字前通り)>
誉田別命を祀る当社は、もと宝泉寺の境内に祀られていたと伝えられる。宝泉寺は真言宗の寺院で、開山良宣が天文十四年(一五四五)に寂している。現在本殿内に奉安されている騎乗八幡大明神像の台座の底面には「宝永七年庚寅(一七一〇) 宝泉寺寛宝求之」と墨書され、同寺との深いつながりをうかがわせている。古代、宇佐八幡宮が東大寺の大仏建立を守護したというように、当社も恐らくは仏法守護の神として勧請されたものであろう。
やがて、当社は永堀家(当主文司)の鬼門除けとして、敷地内の一角であった現在の社地に移し祀られた。ちなみに、永堀家は、室町時代から続く旧家であり、江戸末期には、農学者として有名な佐藤信淵も同家に蟄居し、付近の農民に耕作の指導を行ったという。
『風土記稿』鹿手袋村の項には「日月宮 村の鎮守なり、(中略)八幡社、第六天社 以上共に宝泉寺の持」と載り、江戸期の村の鎮守は日月宮であったことがわかる。しかし、副戸長も務める有力家であった永堀家が特に当社を崇敬していたことや、疫病除けの後利益から氏子の生活に密接にかかわった須賀社が、神仏分離により宝泉寺から当社の境内に移されたことなどから明治期に入ると日月社に代わり当社が鎮守として次第に意識されるようになった。
昭和二十二年に、傷んでいた本殿を改築して現在に至っている。(「埼玉の神社」より)
鹿手袋八幡社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)