興長寺。比企郡鳩山町小用にある真言宗智山派寺院

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興長寺。越生四郎家行創建の伝承、鳩山町指定文化財の半鐘

興長寺の概要

真言宗智山派寺院の興長寺は、延命山奥野院と号します。興長寺は、源頼朝の命により越生四郎家行が建久元年(1190)に創建、苦林野の合戦により正平20年(1365)に焼失、文禄2年(1594)に再建したといいます。当寺の半鐘は、鳩山の鋳物師清水武左衛門が鋳造したもので、鳩山町有形文化財に指定されています。武州八十八所霊場25番でした。

興長寺本堂
興長寺の概要
山号 延命山
院号 奥野院
寺号 興長寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 比企郡鳩山町小用240
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



興長寺の縁起

興長寺は、源頼朝の命により越生四郎家行が建久元年(1190)に創建、苦林野の合戦により正平20年(1365)に焼失、文禄2年(1594)に再建したといいます。明治7年当地で小用学校が開校しています。

境内石碑による興長寺の縁起

記念碑
遠く当山は建久元年越生四郎家行が源頼朝の命を受け源家繁栄祈願の為小用村に一寺と創建されしとの伝説なり
其の後正平二十年足利基氏と芳賀兵衛入欧武蔵国・苦林村に戦い此の兵火により焼失す。文禄二年再建、同三年八月栄円大和上本尊阿弥陀如来造立すと古文書によれば記録居るもので有ります。
明治以来無住寺となり昭和九年四月檀家相計り老朽化せる伽藍の大改修をせしものなり
昭和十八年工藤智伝住職となり大東亜戦に散華せる幾多の英霊を回向しつつ、菩提寺の興隆を願いしも同二十二年農地法大改革により寺有全農地解放となり山林三町二畝二十六歩保有するのみと相なり先人の遺徳功業を茲に失し悔やまれてなりません。同五十四年護持会を結成護寺に尽くして参りました。
同五十九年春住職没し再び無住寺と相なり。本寺で有る松渓山法恩寺第五十二世權大僧正安西昌琳兼務住職、代表役員と相成り永い時代の推移により盛衰を経て今日に及んで居るもので有ります。(境内石碑より)

「近世鳩山図誌」による興長寺の縁起

小用村の興長寺
幅広い谷津左岸の台地状の平地に所在。同所は、村の中の寺という立地環境で民家からの孤立感はない。新義真言宗で本尊弥陀であるが、明治期の『明細帳』によれば、「開祖栄円ナル者文禄三午年(一五九四)八月一二日入寂セシ証過去帳ニ今存セリ、之ニ拠レハ右年暦前ノ創立ト推敵ス」とある。
さらに資料的には新しくなるが、戦前の「寺院台帳記載事項報告書」(昭和十六年)(以下「報告書」とのみ)の由緒沿革に引かれた寺伝によれば、建久元年(一一九〇)に越生家行が創建し、興長寺と命名するが、苦林野合戦(一三六三年)で焼失。その後文禄二年(一五九三)再建、同三年「栄円大和上人本尊阿弥陀如来ヲ造立ス」とする。所在地の小字が、「堀の内」であることを考えると、まさに寺伝を髣髴とさせる。なお、興長寺は、現今宿小学校の大本の一つである小用学校(明治七年)が置かれた寺である。(「近世鳩山図誌」より)

新編武蔵風土記稿による興長寺の縁起

(小用村)
(鹿島社)別當興長寺
新義眞言宗、今市村法恩寺末、延命山奥野院と號す、本尊彌陀を安ぜり、(新編武蔵風土記稿より)


興長寺所蔵の文化財

  • 興長寺の半鐘(鳩山町指定有形文化財)

興長寺の半鐘

興長寺の半鐘は、総高六五cm、口径三七・二cmです。この半鐘には、「享保十八」「作者 清水武左衛門」の銘が刻まれています。このことから、一七三三年に鳩山の鋳物師、清水武左衛門によって作られたものであることがわかり、鳩山の鋳物師研究に欠くことのできない、一級資料と言えます。
尚、「武左衛門」銘を刻み、現存するものに左記の五資料があります。
坂戸市大栄寺 延享五(一七四八)年銘銅鐘
鳩山町休山寺 宝暦四(一七五四)年銘半鐘
秩父市定林寺 宝暦八(一七五八)年銘梵鐘
都幾川村慈光寺 天明三(一七八三)年銘梵鐘
嵐山町平沢寺 寛政五(一七九三)年銘半鐘(鳩山町教育委員会掲示より)

興長寺の周辺図


参考資料

  • 「近世鳩山図誌」
  • 新編武蔵風土記稿