法臺寺。遊行二世他阿真教上人が創建
法臺寺の概要
浄土宗寺院の法臺寺は、大平山と号します。法臺寺は、遊行二世他阿真教上人(元応元年1318年寂)が開基となり、時宗道場として創建したといいます。普光観智国師が当寺住職の代に、大長寺感譽存貞和尚に師事、法臺寺を浄土宗に改めたといいます。普光観智国師の尽力により、法臺寺は徳川家康より13石5斗の御朱印状を拝領、増上寺の旧本堂を当寺本堂に譲り受けたといいます。法臺寺板石塔婆・木造他阿真教上人坐像は県文化財に指定されています。
山号 | 大平山 |
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院号 | - |
寺号 | 法臺寺 |
住所 | 新座市道場1-10-13 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
法臺寺の縁起
法臺寺は、遊行二世他阿真教上人(元応元年1318年寂)が開基となり、時宗道場として創建したといいます。普光観智国師が当寺住職の代に、大長寺感譽存貞和尚に師事、法臺寺を浄土宗に改めたといいます。普光観智国師はその後、蓮馨寺、長伝寺を経て、増上寺12世となり、徳川家康と師檀の寛永を結んだ名僧です。普光観智国師の尽力により、法臺寺は徳川家康より13石5斗の御朱印状を拝領、増上寺の旧本堂を当寺本堂に譲り受けたといいます。
新座市教育委員会・新座市文化財保護審議委員会掲示による法臺寺の縁起
片山法臺寺
法臺寺は現在浄土宗であるが、往古は時宗の道場であり、創建の年代はあきらかではないが、遊行二世他阿真教上人の開基であるといわれている。
中興開山は普光観智国師で、このとき浄土宗に改められたという。国師は芝に大伽藍を造り、増上寺十二世の住持となり、徳川家康の葬儀も遺言により国師が導師となって増上寺でおこなっている。
法臺寺には多くの文化財があるが、本尊は阿弥陀如来の立像、寺宝は観智国師の木像である。また、県指定の文化財である十一基の時宗板碑は貴重な資料で、鎌倉から室町時代にかけての立派なものである。
本像の裏には、江戸時代末期に盛んであった富士講のための富士山が築かれ、そのそばの石碑には、北は入間郡、西は所沢・清瀬・東久留米、南は練馬・板橋にわたる二十五町村の名がみえ、当時この講がいかに盛大であったかがうかがえる。(新座市教育委員会・新座市文化財保護審議委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による法臺寺の縁起
(辻村)法臺寺
除地、四千坪村の南の方にあり、浄土宗、鎮西派、江戸増上寺末山なり、當寺往古は時宗の道場にして、遊行二世他阿真教上人の開基なりと云、剏建の年代は詳ならず、上人は遊行十六年にて、元應元年正月廿七日相州當麻山無量光寺に於て、歳八十三歳にして示寂せり、中興開山は普光観智國師なり、國師は天文十三年當國多磨郡由木村にて生る、俗姓は由木氏平山武者所季重の後胤、由木左衛門尉利重の次男なり、十歳の時當寺に入て蓮阿上人の弟子となる、此頃までは當寺遊行派なりしが、國師十八歳の時鎮西派に改め、増上寺十世感譽存貞和尚の弟子となり、後増上寺十二世の住持にうつり、元和六年十一月二日七十五歳にて示寂せり、この國師の事は世にも知所にして、且多磨郡由木村にも其傳を出したれば、かしこと照し見るべし、當寺北條家分國の時は寄附の寺料も多かりしが、御入國の始に召上られしを、慶長年中國師の乞奉りしにより十三石五斗の御朱印を賜はり、今に至てかはらず。
石地蔵。境内の入口左にあり。
庚申塔。同所右の方にあり。
中門。冠木門なり、入口より百餘歩を隔てり、南向。
大門。中門より又百歩許り奥にあり、大平山の三字を扁す。
制札。中門と大門の間にありて東側に建り、其文左の如し。一山林竹木境内諸役免許之事、一於境内殺生堅不可致之事。月日。當山。
傍示杭。同所西側にて制札とならび建り、【増上寺中興開山】観智國師御剃髪之處と書す。
本堂。門の正面にあり、十間に十一間、本尊阿彌陀如来の立像、恵心僧都の作なり、此本堂はもと増上寺龍ノ口にありし時の堂なり、後に増上寺を芝へ移され、本堂以下新に御造營ありしかば、法臺寺は國師剃髪の地なりとて、やがて下し賜はりしなり。
東照宮御像。御丈七寸、観智國師増上寺住職の時御歸依他に殊なりければ、此御木像も當寺へ納まりしなるべし、御宮も境内に有しが近き頃破壊せしにより、今は本堂に安し奉る。
観智國師像。長二尺五寸、慶長十六年十月國師六十五歳の時の壽像なり。
鐘楼。本堂に向ひて右にあり、本堂より廊下に續き階を設く、鐘は銘文もあれど近年のものなれば略す。
地蔵堂。鐘楼の側にあり。小堂なり。
古碑十三。鐘楼の後にあり、歴代和尚中興以後の墳墓よりは南にあたれり、十三基ともに中に名號六字を大に刻し、左右に年歴の六基、各高さ六尺、幅一尺二寸あり。
(銘文省略)
龍燈椵。本堂の後園にあり、大さ一圍許り、當寺の東字馬場と云處へ古へ辨天の来降せし事ありて、其時この木へ龍燈の上りしゆへ龍燈椵といへり、是も浮屠氏の妄誕の説にして、信ずべからざれど、寺僧の傳ふ儘しるせり。
椵。本堂に向て左にあり、三圍許りなる老樹なり、開山實植の椵と云札を建つ。
山王宮。大門を入りて左實植椵の側にあり、土をもりて其上に祠を建つ、一間に三四尺ばかりなれど、造作は頗る巧なり、宮の後に銀杏の老樹あり、大さ三圍ばかりに見ゆ。
古城跡。境内大門並木の北にあり、四間四方ほどの地なり何人の館跡なるを詳にせず、ただ古址といひ傳ふのみ、今は墓所となれり。
塔頭。智光院。大門を入て左の方にあり、創建の初を詳にせず。(新編武蔵風土記稿より)
法臺寺所蔵の文化財
- 法臺寺板石塔婆(埼玉県指定有形文化財)
- 木造他阿真教上人坐像(埼玉県指定有形文化財)
法臺寺板石塔婆
法臺寺は、鎌倉時代には時宗の道場で、遊行二世他阿真教上人の開基と伝えられている寺院です。
ここに所在する県指定の板石塔婆は全部で十基あり、内訳は六字名号のもの八基、種子のもの二基で、他に致得(至徳の私年号)元年銘の六字名号板石塔婆が一基あります。いずれも字体は時宗系の楷書体で、時期により多少の相違はありますが、彫りの深いものです。銘文に「是一房往生」「作阿弥陀仏往生」などと刻したものがあり、その紀年銘は、没年時を表わすもので墓塔的な意味合いも含んでいます。
一方、阿弥陀三尊種子板石塔婆は、二基とも全く同一の形態で、紀年銘についても「元享二年壬戌十月日」と刻まれていますが、一基は「沙弥道阿貯め逆修也」、一基は「藤原氏女為逆修也」とあって夫妻の逆修のために造立したことがわかります。彫りもこの時期の特徴をよく表わし、特に天蓋は、簡素ながら形のよく整ったものです。(埼玉県・新座市教育委員会、法臺寺掲示より)
木造他阿真教上人坐像
法黒目川沿いに古くから開けた片山の地に、鎌倉時代になると時宗という新しい仏教信仰が伝わりました。
時宗は一遍上人智真を開祖とする宗派で、阿弥陀仏の救済により、西方極楽浄土に往生することを願う浄土信仰の一つです。踊り念仏や念仏札を勧めながら諸国を行脚し、定住の地を持たなかったため、遊行上人と言われました。
他阿真教上人(一二三七〜一三一九)は、一遍上人より二年年長の弟子で、一遍亡き後は、第二祖として時宗教団を統率していき、教化の拠点として各地の「道場」に門弟を送り、定着させました。
他阿上人は、徳治元年(一三〇六)九月から翌年春までこの地に滞在したとされます。これが、後に法臺寺の基となったのです。
「他阿上人和歌集」には、片山の地名や、寺名(法の台)が詠む込まれています。
「木造他阿真教上人坐像」は、胸前で両手を合掌する等身大の木造坐像で、本堂に安置されております。他阿上人の晩年の風貌を写実的に表現し、深い人間性をたたえております。
像高八十三・七cm、寄木造、玉眼、彩色が施されています。十四世紀後半、南北朝時代の特色を残す貴重な肖像彫刻です。(埼玉県・新座市教育委員会掲示より)
法臺寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿