本願寺広島別院。広島県広島市中区にある浄土真宗本願寺派寺院

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本願寺広島別院。広島県広島市中区にある浄土真宗本願寺派寺院

本願寺広島別院の概要

浄土真宗本願寺派寺院の本願寺広島別院は、京都龍谷山本願寺の広島別院です。本願寺広島別院は、浄土真宗本願寺派寺院の龍原山佛護寺を大修繕し、明治41年本願寺広島別院としたものです。前身となった龍原山佛護寺は、安芸国守護の武田治信の嫡子刑部少輔義信が、僧正信を開基として天台宗寺院として長禄3年(1459)創建、その後龍原に移転し龍原山佛護寺と称して、甲斐国から随従した法弟6名に委ねた甲斐六坊、当地へ来てから随従した法弟6名に委ねた地六坊、それに上坊(現浄専寺)を擁した大寺でした。第2世圓清は本願寺蓮如上人に会い、明応5年(1496)浄土真宗に改めています。4世唯順は石山合戦に参戦したものの讃岐で戦死、5世康順の代には本願寺教如上人が当寺へ来寺していたといいます。毛利氏の広島開府に伴い文禄2年(1594)三篠町へ、福島氏在城の際に慶長14年(1609)当地へ移転、江戸期には藝・備・石・豫の五州に356ヶ寺の末寺を擁した大寺でしたが、明治35年より本願寺が当寺を兼務、明治41年本願寺別院に昇格しています。

本願寺広島別院
本願寺広島別院の概要
山号 龍谷山
院号 -
寺号 本願寺
本尊 -
住所 広島市中区寺町1−19
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



本願寺広島別院の縁起

本願寺広島別院は、浄土真宗本願寺派寺院の龍原山佛護寺を大修繕し、明治41年本願寺広島別院としたものです。前身となった龍原山佛護寺は、安芸国守護の武田治信の嫡子刑部少輔義信が、僧正信(甲斐の武田豊五郎政信)を開基として天台宗寺院として佐東郡金山城の麓に長禄3年(1459)創建、その後龍原に移転し龍原山佛護寺と称して、甲斐国から随従した法弟6名に委ねた甲斐六坊、当地へ来てから随従した法弟6名に委ねた地六坊、それに上坊(現浄専寺)を擁した大寺でした。第2世圓清(守護武田信守の子源次郎徹康)は本願寺蓮如上人に会い、明応5年(1496)浄土真宗に改め、自らは圓誓と改名しました。天文10年(1541)武田家は毛利氏に滅ぼされ、寺も荒廃したものの、毛利氏の助力もあり永禄3年(1560)には再建、4世唯順は石山合戦に参戦したものの讃岐で戦死、5世康順の代には本願寺教如上人が当寺へ来寺していたといいます。毛利氏の広島開府に伴い文禄2年(1594)三篠町へ、福島氏在城の際に慶長14年(1609)当地へ移転、江戸期には藝・備・石・豫の五州に356ヶ寺の末寺を擁した大寺でしたが、元禄14年(1701)塔頭十二坊と争論起って以後衰微、明治維新後は寺の維持が困難となり、明治35年より本願寺が当寺を兼務、明治41年本願寺別院に昇格しています。

「廣島市史社寺史」による本願寺広島別院の縁起

本願寺派本願寺廣島別院
本願寺廣島別院は、寺町の北端にあり、もとは龍原山佛護寺と稱し、藩制時代には、真宗京都本願寺派に屬し、官職は院家、寺法安藝國八郡の觸口役寺とし、其末寺三百五十六箇寺は藝・備・石・豫の五州に散在し、藩法としては廣島町組真宗東西四十一箇寺の内東派九箇寺・西派浄圓寺觸下十箇寺を除き、殘二十二箇寺の觸頭にして、毎歳法施米二百俵を賜はり、近國比儔稀なる大刹なりしが、明治維新の後ち、藩府より給與せし法施米を廢止せられ、又其末寺も各々分離獨立して本山の直轄となり、加ふるに檀家僅少なるを以て、寺院の維持困難となり、次で明治八年當寺十七代廣弘寂して、龍原家の血統斷絶しければ、暫く京都本山より寺務を兼攝せしも、遂に明治三十七年十月二十一日に至り別格別院佛護寺と定め、同四十一年四月十五日昇格して本願寺派本願寺廣島別院と改稱せしめられたり。
抑々佛護寺の草創を綜ぬるに、長禄三年安藝國五郡の守護佐東郡金山の城主武田治信の嫡子刑部少輔義信、當寺を金山に建立し、僧正信を以て開基と爲す、正信はもと甲斐國の人、武田氏の族、原田氏、俗名を豊五郎政信と稱す、幼より弓馬の術を厭ひ、家を弟に譲り、十七歳にして薙髪し、庵を山中に結び、「佛護庵」と號し、天台宗を修む、遠近其徳化を慕ひ来りて歸依するもの少なからず、會々武田義信、故ありて甲斐の武田氏に寓居し、深く正信歸依す、後ち義信金山城に歸り、家を繼がんとする時、正信を伴ひ来りて金山の城中に居らしむ、正信緇衣を纏ひて久しく城中に客たるを厭ひ、退きて安藝郡中山村の幽栖に移る、是に至りて義信は正信と謀り、一寺を建立し、以て國家の安全を祈ると共に、連年戦死せし士卒を追吊せんと欲し、頻に寺地を相す、一日義信は城樓に在ちて、雙鶴の雲間より顯れ来りて、金山の半腹に翔翔し、和鳴して麓に下り龍腹の龍岩(形状の龍に似たるを以て世俗龍岩と稱すと云ふ、)に止まるを觀る。翌日も亦斯の如し、是れ乃ち靈鳥の祥瑞を示すものなりと爲し、意を決して其地を開き、本坊及塔頭數坊を建立し、地名に因みて「龍原山」と號し、甲斐の庵名を取りて「佛護寺」と名づけ、正信をして之に住せしめ、寺領三百貫餘を附す、塔頭十二坊は、本坊の門残左右に駢列し、左を「甲斐六坊」と稱し、甲斐國より正信に随従し来れる法弟六人に入寺せしめ、右を「地六坊」と唱へ、正信當國に来りて後ち教を受けし法弟六人に入寺せしむ、別に「上坊」あり、今の浄専寺是なり、正信遷化して、二代圓清繼ぐ、圓清俗名は源次郎徹康、安藝國守護武田信守の子なり、明應五年の春、香林坊の僧(今の元成寺)本堂當番の日、異相の老翁こゝに来り、天台宗を改めて眞宗に歸す可きことを勸む、問答數刻の後、老翁忽焉として煙の如く其影を失ふ、圓清乃ち一山の僧徒を會して其事を議し、且武田氏に請ひて上京し、本願寺蓮如上人を訪ひ、其教を聴き、大に之に信服す、歸るに臨み、上人より六字の名號を自書して之に授く、圓清歸國の後ち、再び塔頭檀越と議し、武田氏に請ひ、同年夏遂に改めて眞宗と爲す、因りて其名の圓清を改めて圓誓となせり、天文十年毛利元就金山城を攻め、城陥り、武田氏滅亡す、當寺三代超順、龍原の寺を去り、安南郡(今の安藝郡)中山邑の正信が舊居に隠棲し、塔頭十二坊も亦各自離散せり、然れども超順は素より緇衣の徒、其身に罪あるにあらず、天文二十一年元就は超順の高徳を慕ひ、兒玉内蔵丞就方をして超順に諭さしめ之を招く、超順輙ち毛利氏に歸降せり、是に於て元就は數々超順を吉田に招致し、同二十二年冬龍原の舊墟に堂宇を假建し、二十三年の春超順をして歸住せしめ、寺領も武田氏の舊を襲はしめ、永禄三年更に本堂を再建せり(後ち寛永十二年本堂再建の時、此毛利氏寄附の古堂を書院に改造せりといふ、)四代唯順は資性豪勇、幼にして弓馬の術を喜び、元就・輝元二君の共に寵する所となり、常に軍事に参與す、天正四年織田信長石山城を攻圍せし時、唯順は本願寺顕如上人の爲めに毛利氏に請ひ、兵を出し糧米を贈り、以て之を援助す、是に於て顕如上人其功を咸賞し、宗祖の遺骨及其自筆の正信偈和讃を賜ふ、天正五年二月二十三日唯順讃州に於て戦死す、墳墓は同國金倉邑に在りと云ふ、五代康順も亦數々軍事に参與し、本願寺教如上人の御簾中當寺に落ち来られしことも「本願寺由緒記」・「表裡問答」・「金録記」等に見えたり、斯くて毛利氏廣島開府の後り、文禄二年輝元より命じて本寺及塔頭諸坊を小河内(今の安佐郡三篠町大字打越の内にあり)に移さしむ、福島氏在城の時に至り、慶長十四年今の地に移し、以て城西の要害に備へぬ、是れ即ち後世の寺町なり、然るに塔頭十二坊は佛護寺に其沿革を傳ふること詳ならざるが故に、後世各塔頭が傳ふる所の説と稍々符号せざるものあり、是を以て元禄十四年當寺と十二坊との間に争論起り十二坊の僧侶は以爲らく、元来十二坊は佛護寺の寺内僧にあらず、古老の所傳は無稽の妄説のみと、遂に各坊の寺地は各自の境内にして、佛護寺の境内にあらずと稱し、塔中より米銀を佛護寺に納むるの慣例をも廢止せしかば、佛護寺の寺運甚だしく衰微し、寺院の維持も困難に陥りしを以て、元禄十六年九代霊順は遂に意を決して、書を藩府に上り、寺院を献じ、住職を辭せんことを請ふ、日光門主これを聞き、佛護寺の爲めに、甚だ之を患ひ、藩主に説きて、佛護寺を保護せしむ、是より藩主は毎歳米二百俵を施し、且つ佛護寺に命ずるに寺院を持續すべきことを以てす、寶永三年藩主は更らに元禄十六年の例に依り、毎歳佛護寺相續米として二百米をを施與すべき旨を、寺社町奉行を經て佛護寺に達せしめ、又廣島町新開よりは「法施銀」・「燈明銭」と唱へ、安藝國八郡よりは「鉢米」と名づけ、米銀を寄附することゝ定め、而して廣島町新開にては町入用銀の中に加へて之を一般村内より支出し、郡村にても村入用米の中に加へて同じく之を一般村内より支出したれば、茲に佛護寺は長く維持する方法確立することを得たり、然れども十二坊の佛護寺境内寺・非境内寺の問題に至りては尚ほ未だ解決せず、佛護寺は依然十二坊を以て境内塔頭と見做し、十二坊は然らずと爲し、軋轢は常に絶えず、遂に元文二年十二坊の内なる高宮郡上中野村品窮寺西派より東派に轉ずるに至り、茲に東西兩本願寺の争論となり、東本願寺より江戸幕府に出訴せり、是に於て幕府は採決して、品窮寺は佛護寺の寺内僧なれば、改派することを得ずと宣告し、又藩府は品窮寺僧馬朝の罪を問ひ、之を追院に處せり、「藝藩通志」に塔頭十二坊の事を記して云く『按ずるに、當山の屬寺に塔頭十二坊と云へるあり、十箇寺は同じ寺町の内に列し、四箇寺は郡村の内にありて、都合十四刹なり、さるに十二坊と稱するは、龍原の舊稱に依るといへり、頭塔の唱も最初天台宗の時の稱なるべし、且昔は十二刹多く坊號なりや、今は報専坊・正善坊のみにて、餘は寺號を用ゆ、享保頃の文書に、今の眞行寺は東前坊、徳應寺は立蔵坊、元成寺は香林坊、善正寺は慶蔵坊、光圓寺は東林坊と見えたり、毛利氏龍原を再興の時、離散の塔頭も皆古墟に返らしめければ、品窮寺・蓮光寺・光禅寺・正傳寺の如きは敷居の地に居留りて返らざれば、また二坊を増し置きて十四坊になりけると、本寺の傳ふ所如斯(この増置二坊詳ならず、天明年間の申状には超専寺徳應寺と見えたり)彼の四刹は郡村に在りといへども、猶十二坊の列にて、外地に棲は便利によるなるべし、同じ寺町に浄専寺と云ふあり、是れ別なり、品龍寺・浄満寺・實相寺の三刹は佛護寺垣内に在して、全く本寺の役僧なり』と、又「知新集」に云く、
境内間數、南北三町半餘、東西一町餘、一圓御免地、
寺内僧幷町家
十二坊
報専坊、超専寺圓龍寺光福寺正善坊光圓寺徳應寺、善正寺、眞行寺元成寺、正傳寺、品窮寺、蓮光寺、光禅寺(此四箇寺は現今郡中に在り)
十二坊の外
浄専寺
役僧三箇寺
品龍寺、浄満寺、實相寺
町家
六十四戸
寺町一町は當寺拝領地なる故、町役人も當寺より申付、諸役當寺へ勤、家譲り賣買帖切をはじめ、普請作事などの諸願、都て當寺にて裁判す、
と、然るに明治維新の後は、前にも述べしが如く、藩府より毎歳施與の法施米幷に廣島町組二十餘箇寺の觸頭を廢止せられ、又その末寺三百五十六箇寺も各々分離獨立して本山の直轄と爲り、加ふるに當寺の檀家少數なるを以て其維持甚だ困難となり、明治八年當寺十七代廣弘入寂して龍原家の血統は斷絶せり、抑々開基正信が龍原に佛護寺を建立してより茲に至るまで四百十七年、二代圓譽が眞宗に轉ぜじ明應五年より三百八十年なり、是に於て京都本山にても、かかる名刹を廢寺と爲すに忍びず、大洲鐵然・息長澤祐に命じて前後寺務を兼攝せしめ、後藤井玄珠入りて十八代の住職と爲りしも、明治三十五年六月退職し、次で近松尊定に十九代住職を特命せられしが、同年十月其職を免ぜられ、本願寺方主明如上人これを兼務し、上人遷化の後ち、法主光瑞更に之を兼務せられたり、然るに由来本願寺は當國に於ける法縁既に久しくして、益々濃厚なるは他國に比儔なきが故に、安藝教區に於ける緇巣有志者間には、當寺を修理して大に荘厳を加へ、以て中國樞要地所在の本山別院と爲し、一は以て法主幷に連枝巡錫の便に供し、一は以て連枝宿徳の此地を過ぐる際、請じて轉法輪の道場と爲し、大に地方の教化に資せむとするの議ありしも、未だ其實行を視るに至らざりしが、明治三十五年の春に至り、機運漸く熟して、道俗有志者大に斡旋盡力し、同年十一月四日本願寺より廣島別院設置の旨を發表し、同三十七年十月二十一日更に別院佛護寺と定められ、同三十九年十月二十一日本堂大修繕起工式を擧げ、同四十年七月本堂向替幷に經蔵・鐘樓・正門・玄関門等の移轉工事に着手し、同年十一月に至り工を竣はると同時に、大玄関・對面所・大臺所・庫裡・墻塀の大修繕及廊下・湯所・収納所等の新建に着手し、四十一年九月三十日竣工す、其竣工に先つこと數月、四十一年四月十五日終に昇格して「本願寺別院」と改稱するに至れり、
(中略)
佛護寺の末寺
藩制時代佛護寺の末寺三百五十六箇寺あり、其内にて廣島市内に在るものを擧ぐれば、左の如し、
廣島比治山町廣寂寺
廣島中島本町浄寶寺
同空鞘町眞光寺
藩制時代には佛護寺の觸下に屬せる寺院二十一箇寺ありき、其寺名を列擧すれば、左の如し、
報専坊、超専寺圓龍寺光福寺正善坊光圓寺徳應寺、善正寺、元成寺光禅寺眞行寺浄専寺廣寂寺眞光寺浄寶寺専勝寺、専光寺、誓立寺、勝順寺、善福寺、永照寺(「廣島市史社寺史」より)


本願寺広島別院の周辺図


参考資料

  • 「廣島市史社寺史」